原作=手塚治虫 制作=角川 春樹 監督=りんたろう 脚本=高屋敷 英夫、金春 智子 作画監督=さかいあきお 配給=東宝 出演=堀 勝之祐、池田 昌子、城 達也 他
時は天平。奈良では巨大大仏殿の建立が行われていた。 工事の指揮者『大和の茜丸』、かつては夢を追い求め光り輝いていた彫り師、権力と名声に己を見失いながらも《火の鳥》の像を彫ることを諦めない。 片腕の盗賊『おわせの我王』、その風体から疎まれすさんだ心を、癒してくれた女・速女(正体は我王に助けられた恩をもつてんとう虫)を、些細な行き違いから殺してしまい全てを無くしてしまう。 物語はこの二人の生き様を縦軸に、大仏殿建立の引き出物である帝への献上品を両者に彫らせ選ぶ勝負を横軸に展開する。
アニメと漫画の最大の違いは何か?ソレは『動き』と『流れ』である。 アニメの流れは止まることはない、始まったら終わりまで一直線だ。だが漫画にはページをめくると言う動作がある。どんなに内容が詰まっていようとページをめくらない限りは話は進まないのだ。 このことが逆に漫画独自の手法を生み出していった。最たるものではページをめくった瞬間の《見開き》だ。めくるという瞬きほどの間、その話は『動き』も『流れ』も止まってしまう。これを効果として狙ったものだ。メジャー所でこの手法が秀でた作品といえば《魔法騎士・レイアース》の第一部・最終話であろう、 アニメ版と比べて見るも一興だ。では流れが止まることのないアニメ独自の手法とは何か?答えは多々有るがこの《火の鳥》では、音と演技だ。映像作品では基本的な手法だが、だからといって馬鹿にしたものでもない。往々にして基本が最も難しいのだから・・・・・。
それだけではない。原作の《火の鳥》では速女をなくしてから我王が仏像を彫るまでの経緯が丁寧に描かれているのだが、アニメでは省略されてしまっているのだ。感情豊かに、怒りに震え感謝の言葉に喜ぶ原作と違い、アニメの我王は速女の死後、徹頭徹尾、寡黙を貫いている。ただ一心に片腕でノミを振る我王、その目はただ虚空を泳いでいた。
彫るがいい、我王
クライマックス、ついに彫り物勝負が始まった。 地位と名声に執着しながら憧れの火の鳥を彫る茜丸。一方の我王は一向にうごきだす気配がない。微動だにせぬまま夜が明けようとしたとき、火の鳥が現れた。彼女を望んで止まぬ茜丸のもとにではなく、我王の元に・・・。 火の鳥は言う・・・彫るがいい・・・と、彫れと言う命令でも、彫ってくれと言う懇願でもない、むしろ免罪のような許しのニュアンスが、そこにはある。そして我王は彫った。見る者全てが感嘆し、茜丸も敗北を悟ったほどの、《火の鳥》を・・・。
だが人はここまで堕ちれるものなのか?茜丸は勝利の為だけに、我王の過去の罪をあげつらい、勝ちを手にしたばかりでなく、残された我王の片腕をも寸断したのだ。ソレすらも無言で受け止める我王・・・。
『・・・・・・・・・・・。』
茜丸は人の弱さの象徴といえた。 最後は自作の火の鳥を納めた倉庫が火事になると、『わたしの火の鳥っ!』と言って火の中に飛び込んでいき、結果焼け死んでしまう。 死の時、遂に火の鳥にであった茜丸は、虫に転生し彼女を彫ることが出来ない事を嘆き『人間になりたい』と叫び死んでゆく。一方の我王は山の中、自分に擦り寄るてんとう虫を見つける。速女と同じてんとう虫。アニメの我王は此処で始めて感情を表す。 ひとすじの涙を流して・・・・。
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