神 戸 新 聞
1.クスノキ(掲載日:2002/01/01)
創造の原点ふるさとに
 
 ぐっと、こぶしを空に突き出すように立つクスノキ。所々をコケが覆っている。生い茂る葉が静かに風に揺れた。

 宝塚市御殿山。一九三三(昭和八)年、当時五歳の手塚治虫は、家族とともに大阪府豊中市から移り住んだ。自宅があった地に今も残る大樹。幼い日の彼も、きっと仰ぎ見たことだろう。

 治虫少年は池田師範学校付属小学校(現・大阪教育大付属池田小)に入学し、阪急宝塚駅から電車で約一時間かけて通学した。体が小さく病弱だったことから、「いわゆる『いじめられっ子』でした」と、後に振り返っている。

 多感な時期を自然に囲まれた御殿山周辺で思う存分に遊んだ。ペンネームにつながる昆虫採集に夢中になったのも、このころだ。

 辺りを歩く。北側の坂を登ると、目の前に大きな池が広がる。治虫少年は「ひょうたん池」と名付けた。さらに北へ行くと、民家のわきにほこらがのぞく。ここは「蛇神社」。そばにはイチョウの木が、子どもの守り神のようにそびえている。まさにうってつけの“秘密基地”―。

 「蛇神社」は、七九年に月刊誌に掲載された漫画「モンモン山が泣いているよ」の舞台としても登場する。

 いじめられっ子のシゲルが蛇神社の主であるヘビ男と出会い、成長していくストーリー。だが、ヘビ男との交流も、次第に色濃くなる戦争の影に断ち切られてしまう。軍用道路の建設や、戦後に訪れた宅地開発の波に削り取られるたび、山は悲しげに泣く。「モーン モーン」と…。

雑木林は住宅街に変わり、自宅跡は他人の所有となった。が、手塚少年が見上げたクスノキは今もまちを見守り続ける=宝塚市御殿山2
 自然への愛着、そして畏(おそ)れ。手塚は生涯、宝塚で過ごした少年時代を忘れなかった。

 サンテレビが八一年に放映した番組「ふるさと人間記」で、手塚は新興住宅が立ち並ぶ宝塚の街を背景に、生い立ちやまちへの愛着を語る。

 「自分のイメージにあるのは五十年前の宝塚。昆虫がいっぱいいて、空を見上げれば星が光っている。その一方で宝塚歌劇があり、創造意欲をかきたてられた。人生や作品のすべてをここで身につけた」

 昨年、手塚の誕生日である十一月三日に行われた宝塚映画祭の閉幕イベントで、映像作家の長男・真(40)はこう締めくくった。

 「宝塚は、父が大学を卒業するまでの二十年間を過ごした土地。ここで物心が付き、漫画を描き始めた。宝塚はまさしく手塚治虫の発想の原点なのです」

 
     ◇

 数々の名作を残した漫画家・手塚治虫。発展する科学技術や医療、歴史から戦争まで、テーマは広く、深い。その作品が時代を超えて私たちの胸を打つのは、彼の温かい人間性や生命への尊厳を感じ取るからだろう。

 御殿山の小高い丘に立つと、クスノキを眼下に宝塚の全景が見渡せる。すべてはここから始まった。(文中敬称略)

 
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