神 戸 新 聞
4.映画好き(掲載日:2002/01/05)
映像のまち復活の力に
 
 悪漢が銃を構える。漫画のコマに描かれているのは右手首と銃のアップ。銃口の先に標的が小さく見える。

 「鉄腕アトム」の一シーン。視点は高低、縦横を自在に動き、読者はいつしか登場人物の目線で物語の世界に遊ぶようになる。大胆なクローズアップとロングショットの切り替え、場面転換の緊迫感を高める細部の描写。いずれも、それまでの漫画にはなかった手法といわれる。

 宝塚市在住の漫画評論家、村上知彦(50)は「登場人物の心理を読者が共有することで、作品の表現力を強める極めて映画的な技法」とその先駆性を解説する。

 

 治虫少年の映画好きは半端ではなかった。御殿山の自宅には、当時としては珍しい映写機があり、米国の喜劇からミッキーマウスのアニメまで数多く観賞した。

 「バンビ」は映画館で連日朝から晩まで見続けた。その数八十回以上。場面を覚え込むと「スクリーンを見ずに、客の泣いたり笑ったりする表情を見て、わがことのように喜んだ」と記している。

 宝塚にはかつて映画館が立ち並び、「映画のまち」といわれた時代があった。そのシンボルが国内最大級だった宝塚映画製作所。阪神間がロケ地になることも多かった。小津安二郎監督の「小早川家の秋」や黒澤明脚本の「姿三四郎」…。一九五一年の設立から七八年まで、百七十六本の映画を生み出した。

映画文化の灯再び−。暗がりの映写室では忙しくフィルムが回る=「シネ・ピピア」
 五二年に東京に居を移した手塚が、同製作所の作品を見たかどうかは定かではない。だが、漫画家になってからも「年に三百六十五本以上の映画を見たこともある」ほどの彼が、スクリーンから故郷の薫りを感じ取っていたとしても不思議はない。

 しかし、テレビの急速な普及は邦画産業を圧迫。同製作所のスタジオは宝塚ファミリーランドのイベントホールに名を変えた。映画文化の灯は先細り、やがて消えた。

 

 九〇年、再びその灯をともそうと、市民が動いた。賛同の輪は次第に広がり、九九年には阪急売布神社駅前に約三十年ぶりに映画館が復活。翌二〇〇〇年十一月には、「宝塚映画祭」が始まった。

 「宝塚に感化され、映画を愛した手塚の作品は、私たちが取り組む映画を通じたまちづくりに欠かせない」。全国初の公設民営シアターとしてオープン、映画祭会場にもなった「シネ・ピピア」支配人の景山理(46)は言う。

 第二回となった昨年の映画祭では「リボンの騎士」などの手塚アニメを上映。長男の真が監督し手塚本人が出演した作品「妖怪(ようかい)天国」も話題を呼んだ。

 「手塚は宝塚で原点を培った。今度は、後に続く世代が彼の作品を通して『映画のまち』の文化・歴史を再認識し、発見する番だ」と景山。

 映画少年・手塚の思いがいま、故郷によみがえろうとしている。(文中敬称略)

 
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