神 戸 新 聞
5.モダニズム(掲載日:2002/01/06)
ハイカラ文化 感性磨く
 
 御殿山にあった手塚の自宅は、休日になると、いつも級友たちでにぎわった。彼らの目当ては、家庭用映写機で見るミッキーマウスやチャプリンなどの映画作品。そして、本棚を埋め尽くす二百冊以上の漫画本だった。

 一日中、映画や漫画に熱中するガキ大将やわんぱくたちを、母親の文子はお菓子や紅茶で丁重にもてなした。父親の粲(ゆたか)も、カメラを持ち出して歓待した。手塚は「自分はお菓子を運ぶ役だった」と述懐しているが、学校での「いじめられっ子」としての存在から逃れられるその日は、何だかうれしい気持ちもした。

 手塚家が宝塚に移り住んだのは一九三三(昭和八)年。粲は財閥系企業に務めるホワイトカラーで、音楽や映画、写真など多彩な趣味を持っていた。粲がフランス製の八ミリカメラで撮影した自宅の庭で遊ぶ着物姿の子どもたちの映像は、にぎやかな休日の様子を伝えている。

 一家の生活水準は高く、家族で近くの宝塚新温泉や歌劇に出向き、遊園地で遊んだ。クリスマスには宝塚ホテルで食事をするハイカラな家庭。当時の宝塚はピアノの普及率が全国一で、手塚は大学生時代、隠し芸でピアノの独奏を披露したこともあった。

1959年に手塚が結婚式を挙げた宝塚ホテル。モダニズムの香りは手塚作品に大きな影響を与えた=宝塚市梅野町1
 六甲山系をバックに広がる阪神間は明治以降、鉄道網の整備に伴って発展した。阪急電鉄の前身「箕面有馬電気軌道株式会社」は一九〇七(明治四〇)年に創立され、三年後には宝塚線の営業を開始。沿線は別荘地や郊外住宅地として開け、大阪の商人らとともに、芸術家や外国人が移り住んだ。西洋文化の浸透とともに美術、文学、音楽、娯楽といった独特の「阪神間モダニズム」が芽生えた。

 手塚が宝塚で過ごした二十年間は、ちょうどその隆盛期と重なった。しゃれた街並みと伝統に縛られない自由な発想。阪神間の文化に詳しい夙川学院短大教授の河内厚郎(49)は「手塚はモダニズムから育った最初の天才で、まさに申し子」と断言する。

 阪急宝塚駅前を東南へ約五百メートル。通称「花のみち」と呼ばれる道路を挟み、遊園地や動物園、宝塚大劇場が並ぶ周辺は戦前、「人工的近代都市」と評された。治虫少年はこの一帯を“遊び場”にし、創造力を膨らませた。

 作品には阪急沿線の分譲住宅や宝塚ホテルといった地元の風景が頻繁に登場し、「鉄腕アトム」などで描いた近未来都市には、当時の宝塚の先進文化から受けた影響が色濃く漂う。豊かな文化環境が手塚の感性にさらに磨きをかけた。

 河内は言う。「大きな実りをもたらした手塚とモダニズムの出合いは、まさに奇跡的だった」

(文中敬称略)

 
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