神 戸 新 聞
6.記念館(掲載日:2002/01/07)
原点の街から遺志発信
 
 一九八九年二月九日、手塚治虫は約四十年にわたる創作活動の幕を閉じた。まだ六十歳の若さ。突然ともいえる死は、ファンのみならず、多くの人に衝撃を与えた。

 生涯で七百タイトルの作品を世に送り出した不世出の漫画家の足跡を紹介しようと、百を超す自治体や企業から記念館誘致の申し出が遺族のもとに寄せられた。手塚が五歳から二十四歳までをすごした宝塚市も名乗りを上げた。

 御殿山の昆虫を通じて生命の尊さを知り、歌劇と映画を愛し、モダニズム文化に触れた“心のふるさと”。「手塚作品は宝塚市民の財産。この地に記念館をというのが全職員の悲願だった」。同市企画部課長として誘致に取り組んだ山下稔(54)は、当時を振り返る。

 最終的には数カ所の「ゆかりの」自治体が候補地として絞られた。山下らは、業績の展示だけでなく、手塚の残したメッセージを受け止め、発信することが記念館の役割と考え、遺族に伝えた。「未来を担う子どもたちが夢と希望を感じられる場にしたい」

 激しい誘致合戦の中、夫人の悦子、長男の真らの気持ちは早くから決まっていた。

 「宝塚は思い出の街であるとともに、私の作品の原点であり、思想が育まれた街である」。手塚の生前の言葉は、記念館建設の地が宝塚以外にないことを示唆していた。

兵庫県の復興のシンボルにもなった「火の鳥」。記念館は手塚のメッセージを伝え続ける=宝塚市武庫川町
 翌九〇年十一月、宝塚市立手塚治虫記念館の設立が決まる。悦子は発表の席で「漫画家としての出発点ともいえる宝塚に記念館を―との私の希望がかない、うれしく思う。本人も喜んでいることでしょう」と述べた。後に初代館長となる山下にとっても「感謝にたえない瞬間」だった。

 手塚が生涯にわたって伝え続けた「自然への愛と生命の尊さ」をコンセプトに九四年四月、全国でも珍しい公立の漫画家記念館が誕生した。

 オープン当日には、赤塚不二雄や松本零士ら著名な漫画家も駆け付けた。休日には入館制限するほどの人気ぶりで、わずか二カ月で初年度の予想入館者数十三万人を突破。山下は「手塚の人気はどこまで広く深いのか。畏敬(いけい)の念を覚えた」という。

 翌九五年の阪神・淡路大震災で、阪神間も大きな被害を受けた。同記念館は「負けるな阪神大震災・十万馬力でがんばろう」をテーマに企画展を開いて被災地を勇気づけ、手塚のライフワークだった「火の鳥」は兵庫県の復興のシンボルにも採用された。

 ガラスのように美しく壊れやすい地球で人間は力を合わせなければ生きられない―。記念館屋上に配された青いドーム型の「地球」は、そんな手塚の思いを象徴する。館内には、幼少期に戦争を体験した手塚の足跡をたどる直筆のデッサンや書簡も展示され、訪れる子どもたちにさまざまなメッセージを伝える。

 手塚の思いを永遠に―と願い続ける山下の胸に、今も悦子の言葉が響く。

 「この中に手塚の心が残っている」

(文中敬称略)

 
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