(掲載日:2002/12/19)
1.京都大学名誉教授 森 毅さん   同じ時代を生きた先輩

 僕は子どものころ豊中に住んでて、手塚とは同じ阪急宝塚沿線育ち。お互い昆虫少年だったしね、共通点は多いねんけど、実際に会ったのは一度だけ。彼が亡くなる前年の一九八八年、ある会議の会場で立ち話をした。

 大阪の北野中(現・北野高校)の一年先輩と聞いてたから、僕も先輩を立てる調子で話してたんやけど、手塚は居心地悪そうにもじもじしてね。なんや変な感じやった。

 後で分かったんやけど、彼は学生でデビューする時、「若過ぎたらナメられる」と年齢を二歳ごまかして、ずっとそれで通してた。ホンマは彼が一年後輩やってんね。そういえば、中学で昆虫の標本箱を自慢してた下級生がおった。あれ手塚やったかもしれんね。

 宝塚歌劇好きも同じ。僕の家には歌劇の雑誌編集をしていたおふくろのコネで、歌劇のお姉さんたちが出入りしてて、当時の若い女性の流行はいち早く教えてもらってた。「レベッカ」とか「誰が為に鐘は鳴る」とかね、名作のたぐいはまず歌劇の舞台で見たなあ。

 本格的な教養とは違うけど、当時の「プチインテリ・カルチャー」というか、そういう文化を浴びて育った。手塚も同じでしょう。作品にもそういうにおいがある。

 マンガは京大の助教授時代、全共闘のヘルメット連中から教えられてね。手塚作品も読みましたよ。「鉄腕アトム」「三つ目が通る」…。一つ挙げるなら「火の鳥」かな。生命観とか輪廻転生(りんねてんしょう)を扱ったやつ。彼も浮き沈みが激しくて、苦労したでしょう。「ああこんな所に行き着いたか」と感慨深かったね。

 手塚作品はヒューマニズムとか言われるけど、あまりそんなふうに見ない方がいい。軍国少年になりきれずに、軍事教練サボって配属将校おちょくったりね。僕もそうやったけど、そんな経験のある人間は一筋縄ではいかんよ。反骨精神や権力への懐疑…。そんなんがないまぜになってる。

 同じ時代に同じ空気を吸って育った人間やからね、手塚の考え方はよう分かる。もっとゆっくり話したかったなあ。

◇       ◇       ◇

 戦後間もなくのデビューから死の間際まで四十年以上にわたって漫画を描き続けた手塚治虫。その作品は幅広い世代を魅了し、読み継がれてきた。各界の四人に「私の手塚」を語ってもらった。

 もり・つよし 1928年生まれ。数学者。東京大学在学時から歌舞伎などの評論を執筆。現在も幅広い社会・文化評論で活躍している。    
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