(掲載日:2002/05/21)
2.旧制北野中学「砦」の中 学んだ心

 「暗い時代、あの美術室は私たちの最後の砦(とりで)だった」

 恩師の死に際し、手塚治虫は語った。

 大阪の旧制北野中学(現北野高校)に入学したのは太平洋戦争開戦の年。戦況悪化につれて授業時間は削られ、軍事教練や工場への勤労動員が連日行われるようになる。

 暇さえあればマンガを描いていた手塚は、軍から派遣された将校の目の敵にされた。「非国民」とののしられ、竹刀で殴られ、それでも描いた。胸の奥に美術教師・岡島吉郎の言葉があった。

 「どんなに厳しい時勢でも、マンガを描くのだけはやめるな。おまえはいつかそれで身を立てられるんだから」

 同級生の葛野兼一(74)=大阪府吹田市=は、工場の更衣室での光景を覚えている。「彼がペンを何種類も使ってさっささっさ描いていくのを皆でのぞき込んでね。でき上がると仲間で回し読みした」

 絵画班(部)に籍を置いた手塚は、岡島から美術の基礎を学んだ。絵の具が手に入らなくなると、木炭で描いた。それも切れると、岡島が幻灯機で仏像の写真を映し、解説した。

 「砦」には、描く喜びがあふれていた。

 その教室はもうない。一部残った旧校舎も間もなく取り壊される。

 二枚の鉛筆デッサンと、マンガ家になってから描いた学帽姿の自画像だけが、あの時代の手塚の記憶を伝えている。(敬称略)

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