(掲載日:2002/05/22)
3.松屋町「赤本」から始まった

 メンコやブリキのおもちゃ、駄菓子を扱うバラックの問屋が肩を寄せ合うように立ち並び、リュックをかついだ商人がせわしげに行き交う。戦後間もない大阪・松屋町―。大阪大学医学部生の手塚治虫は、授業が終わると角帽をベレー帽に変え、漫画の原稿を手にまっすぐこの町へ向かった。

 行き先は「赤本」と呼ばれた少年向け漫画の出版社。映画のような立体的表現で戦後漫画の金字塔となった「新宝島」を皮切りに「メトロポリス」などのSF、西部劇から時代劇まで数十冊を、ここから世に出した。

 「右から左に、それこそ飛ぶような売れ行きでした」。今も唯一、松屋町で本の卸売業を営む「村田松栄館」の村田政明(68)は話す。粗悪な紙と印刷にもかかわらず、手塚の創造した夢とロマンの物語に、焼け跡の子どもたちは魅せられた。

 圧倒的ともいえる人気とはね上がる原稿料。次第にプロとしての自信と自覚が芽生えた。「自分は赤本の王様になる人だと思った」。手塚は確信し、進む道が決まった。

 やがて世の中が落ち着くと、赤本漫画の出版社は泡のように消え、手塚の活躍の場も一九五二年には東京へと移った。  「人形とおもちゃの町」マッチャマチ。ここで、医者の卵から偉大な漫画家が誕生したことを知る人も、今はほとんどいない。(敬称略)

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